21番目の勅撰和歌集「新続古今集」と、その後

新続古今和歌集
勅撰和歌集の21番目
(二十一代集の最後の集)
十三代集の13番目


執奏 第6代将軍足利義教

宣下 後花園天皇

撰者 飛鳥井雅世

1439年成立(前集から約50年後)

20巻 2144首

真名序、仮名序は
 一条兼良二条良基の孫)が執筆


巻頭歌 春上1

春きぬと
いふより雪の
ふる年を
四方(よも)に隔てて
立つ霞かな

by 飛鳥井雅縁
(あすかいまさより、雅世の父)


春上2

滋賀の浦や
よせてかへらぬ
波の間に
氷うちとけ
春は来にけり

by 後小松院


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新続古今集について「乱世の天皇(秦野裕介著)」に、分かりやすく解説が書かれていました。


室町将軍義教による後花園天皇の権威向上プログラムの一環で、
天皇と室町殿が一体となって文化活動をリードするという図式の可視化を目指した、と。


本によると、後花園天皇は勅撰集の事業が決まったあと、後小松院に和歌を贈り、添削を依頼しているそうです。

院からは「上出来である」という言葉と返歌がありました。

御製(後花園天皇
 色かへぬ
 ときはの松に
 ちぎるらし
 はこやの山の
 千世の友鶴


返歌
院御製(後小松院)
 すゑとをき
 雲ゐにこゑを
 つたえてや
 はこやの山に
 鶴(たづ)もなくらん


「はこやの山」とは仙洞御所のこと。
「雲ゐ」は内裏。

天皇は、
後小松院と妃の光範門院を「友鶴」として双方の長寿を祈り、
後小松院の返歌からは
自分の後花園天皇を思う気持ちを伝えたい、という思いが現れている。

と、書かれています。

後花園天皇は後小松院の養子ですが、
『後花園にとっては良き「両親」だっただろう』と書かれていて、乱世の中にも様々な絆が紡がれていることに、ほっとします。


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「新続古今集」巻末は、
和歌の神を祀る住吉神社と新玉津島社への奉納歌。
最終の2首は、新玉津島社への奉納歌。


巻20 神祇(じんぎ)2143

 ささがにの
 蜘蛛の糸すぢ
 代々(よよ)かけて
 たえぬ言葉の
 玉津島姫

by 二条為重


神祇2144

 たのむかな
 わが藤原の
 都より
 跡たれそめし
 玉津島ひめ

by 前太上大臣良基


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「新続古今集」後、
8代将軍義政が、1464年の後土御門天皇践祚を契機に勅撰集編纂を企画し執奏、翌年、後花園院から飛鳥井雅親に撰集が命じられますが、
応仁の乱で和歌所が焼失、撰集は中止されました。

以降現在まで勅撰和歌集が編纂されることは無く
「新続古今集」が最後の勅撰和歌集となりました。


乱の最中は、天皇家と将軍家が室町御所に同居し、公武の近臣を交えて歌会が催されました。

9代将軍義尚(よしひさ)も和歌を愛し、積極的に歌会や歌合を開催しました。

義尚は自ら和歌の撰集を始めましたが、近江に出陣した後に亡くなり頓挫しました。


応仁の乱で都は荒れ果てましたが、公武の交流や公家達が地方へ逃れたことで、和歌文化は地方へ広がりました。


地方歌人は、扇谷上杉氏の重臣江戸城を築いた太田道灌が有名です。


戦国時代には、各地の大名や豪族達が公家達を招いて歌会を催したり、歌道の伝授が行われたりしました。


中世末期、足利将軍家に仕えていた細川幽斎が、のちに織田信長に従うことになり、三条西実枝から古今伝授を受けました。


信長亡き後、引退し
唯一の伝承者となった幽斎は、八条宮智仁(としひと)親王に伝授を開始しますが、
関ヶ原の戦いが起こります。

家康方東軍に属していた幽斎は、
居城の田辺で西軍に包囲されました。


後陽成天皇の勅命が下り開城されて、智仁親王への伝授は完了されました。


幽斎は、中院通勝・烏丸光広三条西実条らへも伝授を行いました。


門弟らにより、乱世の中でも綿々と和歌の伝統が伝えられて行きました。


戦国武将たちも沢山の歌を詠んでいます。


中からひとつ

露と落ち
露と消えにし
わが身かな
浪速(なには)のことも
夢のまた夢

by 豊臣秀吉 辞世の句


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