19番目の勅撰和歌集「新拾遺集」と室町2代将軍足利義詮

借りてきた「太平記」には載ってませんでしたが、
太平記の40巻に、後光厳天皇が清涼殿で歌会を開催し、公卿たち、武将たち、2代将軍足利義詮も参内した様子が描かれているようです。


義詮は、薄紫色の立紋の織物の指貫(さしぬき)に、紅の打ち衣を出し、常の直垂。

帯剣役の山名氏清は、薄い紫の指貫に山吹の狩衣(かりぎぬ)、
沓持ち(くつもち)役の摂津能直は、薄色の指貫に白青(あさぎ)織の狩衣を着て従っている。

弓矢持ち、侍所の者達、
土岐氏、山城氏、赤松氏、朝倉氏、細川氏・・
多すぎて書けませんが、戦国時代初期に轟く名がズラリ。
各自、馬に厚い房をかけ、
侍所長官の今川了俊は随兵100騎ほどを率いて・・って、圧巻ですね。


殿上の公卿、大臣たちも華やかで、
雅楽が演奏され、和歌が朗詠される歌会。


後光厳天皇は、大乱が収まり、人々が安心して暮らせる太平の世を願って開催したのでしょう。


2代将軍足利義詮が、勅撰和歌集「新拾遺集」を執奏したのも、世が定まることを願ったからなのだろうと思いました。


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義詮は、尊氏の正妻の子なので嫡男とされました。

1333年、父尊氏が、北条時高に後醍醐天皇の討伐を命じられた際に(二心がないことを誓う)人質として、母とともに鎌倉に留められました。


尊氏が鎌倉幕府に謀反すると、家臣に守られ脱出しました。
新田義貞が鎌倉攻めのために挙兵すると、義詮は父の名代として旗印とされ、4歳で初陣しました。


義詮は、観応の擾乱南朝との戦いの中、父尊氏が死去すると29歳で2代将軍となりました。


4回ほど、南朝方に京を奪われ、また奪還し、やっと南北朝講話の兆しが見え始めた頃、
1367年に38歳の若さで亡くなりました。


足利氏も元は源氏の一族ですから、本家天皇家の争いは早く収まって欲しかったでしょうねぇ


足利氏の家督は、まだ幼い義満が継ぎ、翌年、義満が第3代征夷大将軍に任じられ、管領細川頼之が補佐して政治を取り仕切るようになります。

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義詮が執奏した「新拾遺集」は、二十一代集の中にひっそりと存在していますが、時代背景を知ると読んでみたくなります。


「愚管記」によると、「新拾遺集」撰者の二条為明が亡くなったときには撰集が危ぶまれましたが、義詮の強い主張により完成したそうです。


義詮の歌は15首ほど収載されています。


巻1 春上99
百首歌たてまつりし時、花

分けゆけば
花にかぎりも
なかりけり
雲をかさぬる
み吉野の山

by 権大納言義詮
from 新拾遺集


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