18番目の勅撰集「新千載集」と足利尊氏
。:+* ゚ ゜゚ *+:。:+* ゚ ゜゚ *+:。:+* ゚
1338年、足利尊氏が光明天皇から征夷大将軍に任じられ室町幕府を開く。
尊氏は、政治を弟の直義に任せた。
1339年
後醍醐天皇が崩御。宝算52(満50歳)
南朝吉野で義良親王(後村上天皇)が即位した。
1350年(〜1352年)
政治を担っていた直義(尊氏の弟)と、反直義派(尊氏の執事・高師直)が対立。
「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」が勃発。
幕府内で内紛となる。
高師直は敗北したが、幕府内では直義派と反直義派の対立はおさまらず、
尊氏は、京から直義派を排除した。
京から排除された直義は関東・北陸・山陰を抑え、直冬(尊氏の実子で直義の養子となっていた)は西国で勢力を伸ばしていた。
尊氏は、直義・直冬追討の綸旨を要請するため、南朝に和議を提案した。
南朝との交渉は尊氏の嫡男・足利義詮(よしあきら)に担当させた。
南朝方は、北朝にある三種の神器を渡して政権を返上することなどを条件とした。
1351年
〈正平一統〉(しょうへいいっとう)
尊氏は条件を容れて南朝に降伏し綸旨を得た。
元号は南朝の正平に統一され、
崇光天皇は廃位され
三種の神器は南朝にわたった。
1352年
直義は尊氏に鎌倉で捕えられた後、落命し、
「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」が終結した。
足利一族の内紛は決着したが、足利幕府と南朝は対立、戦闘が続き、尊氏と義詮は観応の元号を復活させ、〈正平一統〉は4ヶ月余りで瓦解した。
光厳・光明・崇光の三上皇と直仁親王は南朝(後村上天皇方)に連れ去され、
上皇、天皇、皇太子、三種の神器不在の事態に陥った足利幕府北朝は、
崇光上皇の弟で光厳上皇の第2皇子・後光厳天皇を急遽擁立した。
。:+* ゚ ゜゚ *+:。:+* ゚ ゜゚ *+:。:+* ゚
後光厳天皇は、二条良基らの勧めによって、歌道の京極派をやめて二条派に転じた。
(二条良基は、太政大臣、摂政関白をつとめた北朝公家の中心人物で、歌道家の二条家とは別家)
「和歌史を学ぶ人のために」から
『京極派はこの事件を契機に廃れてゆく。
良基らの支持した二条派歌風は平明優雅を庶幾するもので、稽古修練によって多くの人が一定水準の歌を詠作できうるものであり、天皇・公家に限らず、武家や僧などの幅広い層にも親しまれているものであった。』
1356年
足利尊氏は、二条為定を撰者としての勅撰集撰集を後光厳天皇に奏上し撰集の命が下った。
初めて、武家の執奏による勅撰集が撰集され、以降も幕府の執奏が通例となった。
。:+* ゚ ゜゚ *+:。:+* ゚ ゜゚ *+:。:+* ゚
足利直義が尊氏に捕らえられ亡くなった後、足利直冬勢も崩壊したが、尊氏は、1358年、京で死去した。
戦闘中の傷による傷病死といわれる。
。:+* ゚ ゜゚ *+:。:+* ゚ ゜゚ *+:。:+* ゚
1359年
第十八代勅撰集「新千載和歌集」が成立した。
尊氏の死去により、撰集作業の中止もあったが、頓阿が義詮を説得して奏覧することができた。
。:+* ゚ ゜゚ *+:。:+* ゚ ゜゚ *+:。:+* ゚
新田氏足利氏系図
。:+* ゚ ゜゚ *+:。:+* ゚ ゜゚ *+:。:+* ゚