16番目の勅撰和歌集「続後拾遺集」その2

1326年

鎌倉時代最後の勅撰和歌集「続後拾遺集」が成立

宣下した後醍醐天皇といえば、

足利尊氏新田義貞楠木正成

足利氏と新田氏は源氏の末裔。新田義貞は養子説あり。

楠木正成の詳細出自は不明。

足利尊氏は、早世した兄に代わり家督を継ぐ。

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1324年の「正中の変」では天皇に咎が及ぶことはなかったが、

1331年~ 「元弘の乱」が起き、

楠木正成後醍醐天皇に応じて幕府へ挙兵。

後醍醐天皇尊良親王は逃亡するが捕らえられ、尊雲(護良親王)と正成は逃げ延び桜山茲俊は吉備津宮に火をかけ自害した。

後醍醐天皇は退位を強制され、両統迭立により持明院統の皇統から光厳天皇が即位した。

後醍醐天皇隠岐島へ、尊良親王は土佐へ流され、天皇の腹心日野資朝(すけとも)は処刑された。

天皇の配流をきっかけに、楠木正成や各地の悪党が再挙兵した。


1333年
隠岐を脱出した後醍醐天皇伯耆(ほうき、鳥取県)で挙兵。

足利尊氏鎌倉幕府軍を率いて京都へ向かう。

ところが、足利尊氏は、北条執権鎌倉幕府に反旗を翻し、丹波兵庫県)で、源氏再興の旗を揚げて京都に侵攻し、六波羅探題を滅ばした。

光厳天皇と花園院は鎌倉へ脱出するところを捕らえられ、後醍醐天皇が返り咲いた。

その頃、関東では新田義貞が反乱を起こし、関東の御家人たちと共に鎌倉を制圧した。

執権北条高時ら幕府の首脳陣は自害、粛正された。

将軍守邦親王は、直後に出家し三か月ほど後に逝去した。

こうして鎌倉幕府は滅亡した。

簡単な系図作ってみた。

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鎌倉幕府滅亡後、

建武の新政南朝征夷大将軍には、後醍醐天皇の皇子

護良(もりよし)親王

成良(なりよし)親王

宗良(むねよし)親王が就任した。

 

後醍醐天皇が、出自が源氏の名門であり倒幕の功績も大きかった足利尊氏征夷大将軍の職を与えなかったのは、武家政権の復活への警戒心からといわれている。


1335年に中先代の乱が起き、兵を率いて討伐し鎌倉を平定した足利尊氏は、天皇から離反して鎌倉に拠点を構え、帰還を命じる天皇の命令を無視した。

天皇の命を受け新田義貞が討伐にくると、足利尊氏軍は箱根で新田義貞軍を破り、伊豆、近江と合戦を経て1336年に京都に入って天皇方と戦ったが敗れて九州に下った。

同1336年、足利尊氏は九州で勢力を回復し再び上洛を目指した。

同年、足利軍は、摂津国湊川での戦いで天皇方を破り、後醍醐天皇は京都の花山院に軟禁され、持明院統光明天皇が新たに即位した。(京都の北朝

同年、後醍醐天皇は花山院を脱出して大和の吉野に逃れ、自らが天皇であることを主張して吉野朝廷を成立させた。(吉野の南朝

後醍醐天皇は、吉水院(現在の吉水神社)を皇居とし、吉水院は南朝4代57年の行宮となる。

(現在、吉水神社の書院には、「後醍醐天皇玉座の間」や南朝の宝物が展示されている。
また、豊臣秀吉は、吉水院を「吉野の花見」の本陣とした。)

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京都の足利尊氏は「建武式目」を制定、1338年には新田義貞を討ち、光明天皇により京都室町幕府征夷大将軍に任ぜられた。(北朝

一方、

1339年に後醍醐天皇崩御後に後村上天皇が即位し、

1352年、各地で室町幕府軍と戦っていた宗良親王征夷大将軍に任ぜられた。(南朝


各地で繰り広げられた戦いは、やがて講話が成立し南北朝は統一される。

南朝最後の征夷大将軍宗良親王は1380年代の前半に70歳ほどで逝去したといわれる。


つづく・・