4番目の勅撰和歌集「後拾遺集」

拾遺集」から、約80年後に撰集された勅撰和歌集「後拾遺集


勅命 白河天皇

撰者 藤原通俊

1086年成立

20巻 1218首


拾遺集」から「後拾遺集」が成立するまでの約80年間は
藤原摂関家の全盛時代
枕草子」「源氏物語」「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」が著された時代


「後拾遺集」は、約三分の一が女性の歌


主な歌人
和泉式部(女性) 67首
相模(女性) 40首
赤染衛門(女性) 32首
能因法師 31首
伊勢大輔(女性) 27首
清原元輔 26首


「後拾遺集」には
一条天皇の皇后・定子の歌が収載されています。
辞世の3首といわれる内の2首です。


536番

夜もすがら
契りしことを
忘れずは
恋ひむ涙の
色ぞゆかしき

by 一条院皇后宮(定子)


537

知る人も
なき別れ路に
今はとて
心細くも
急ぎたつかな

by 一条院皇后宮(定子)



清少納言の「枕草子」には、仕えていた頃の定子の聡明で優雅が様子が描かれています。


定子の父は藤原道隆
母は高階貴子(百人一首54番歌)


995年に父が亡くなり、兄弟が不祥事、家が政治失脚し、定子は出家します。

翌996年、母・高階貴子が失意の内に亡くなりましたが、定子は皇女を出産しました。

定子は、一条天皇に懇願され再入内。


一条天皇は、定子の元に通い、
定子は、一条天皇の第1皇子・敦康親王を産みます。


出家したのに還俗して再入内した定子に対する周囲の目は冷たく、
公家たちの娘が入内するようになり、
叔父・藤原道長の娘彰子が中宮になり、定子は皇后に。
(后が二人)

(定子の子・敦康親王は即位せず、
後に天皇になったのは彰子の産んだ第2皇子でした)


1000年、定子は第2皇女を産みますが、出産直後に25歳で亡くなりました。


遺品の中にあった見習帳に3首の和歌が記されており、
2首が「後拾遺集」に収載されました。



夜もすがら
契りしことを
忘れずは
恋ひむ涙の
色ぞゆかしき


一晩中愛し合ったことをお忘れでないなら、私が死んだ後にあなたが流す涙はどんな色なのでしょう。


知る人も
なき別れ路に
今はとて
心細くも
急ぎたつかな


誰も知る人がいない死への旅路に、今となっては心細くても急いで旅発つのです。


もうひとつの和歌は

煙とも
雲ともならぬ
身なれども
草葉の露を
それとながめよ


煙とも雲ともならない我が身であるけれど、草葉の露を私だと思って眺めてください。


定子は生前、亡骸は火葬せず鳥辺野に土葬して欲しいと希望していたそうです。


煙とも雲ともならず=火葬せず、という遺言通り、現在の京都市東山区の鳥辺野丘陵に埋葬されています。


定子の3回目の出産の話は「栄華物語・鳥辺野」に書かれているそうです。

定子が崩御してまもなく、清少納言は宮仕えを辞め、その後の清少納言の人生は不明ですが、
晩年は父・清原元輔の旧居、京都の月輪山荘で過ごしたとされています。
鳥辺野丘陵にもほど近く、きっと定子を偲び参拝したのではないかな、と思いました。