6番目の勅撰和歌集「詞花集」

「金葉集」編纂から20年足らずで編纂を下命された「詞花集」

部立は「金葉集」と同じ構成の10巻仕立て。

「金葉集」三奏本と重複する歌がある。
勅撰集には、同じ歌は撰ばれないので、「金葉集」は勅撰和歌集と認められていなかったのではないかといわれます。


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「詞花集」

院宣 崇徳上皇百人一首77番歌)

撰者 藤原顕輔

藤原顕輔は、「金葉集」巻頭歌の藤原顕季の子。

藤原顕季は、歌門の六条藤家の祖。

藤原顕季→藤原顕輔→藤原清輔

六条藤家3代目の藤原清輔は、保元の乱後に頭角を表して、御子左家の藤原俊成と並び称された。

藤原氏系図

「詞花集」は、撰者顕輔の息子清輔の助力も得て、下命から7年後(1151年)に2度目の奏上で嘉納された。

和歌数は 415首


保元の乱が起こる5年前。

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「詞花集」雑下362


かはらむと
いのる命は
惜しからで
さても別れむ
ことぞ哀しき

by 赤染衛門


赤染衛門が息子の大江拳周(たかちか)が危篤になったときに、回復を願った歌


息子の代わりに私を死なせて下さい。命は惜しくありません。
けれど(母の願いが叶っても)息子に会えなくなる、そのことこそが哀しい。


息子と別れたくない、と切に願う気持ちが溢れてる歌ですね。


赤染衛門は、藤原彰子に仕え、紫式部和泉式部清少納言伊勢大輔らと親交があり、夫を支え子女の育成に尽くした女性だったようです。

ほんの少し古典をかじっただけですが、赤染衛門は・・如才ない人、配慮が行き届いた、意地悪や悪意のない人という感じがします。

栄華物語は作者不明ですが、正篇の作者が赤染衛門という説があります。