7番目の勅撰和歌集「千載集」その2

「千載集」は、
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宣下 後白河法皇

撰者 藤原俊成

1187年成立

歌数 20巻1288首


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序文に
主に後拾遺集以降の歌を撰んだと書かれています。
(今行く先もはるかにとどまらんため、この集を名付けて千載和歌集という)と書かれ、
はるか千年先までこの集が伝わるように、千載集と名づけたということです。


平氏の歌はすべて「よみ人知らず」とされています。


僧侶の歌が2割と多く、平安朝末期の世相が反映されています。

崇徳院の歌が23首、
崇徳院主催の「久安百首」から127首と沢山収載しているのは、崇徳院(後白河法皇の兄)の鎮魂のためであろうといわれます。


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主な歌人
俊頼 52首
俊成 36首
基俊 26首
崇徳院 23首
俊恵 22首
和泉式部 21首
道因 20首
清輔 20首
西行(円位)18首

春上66
故郷花といへる心をよみ侍りける

さざ波や
志賀の都は
荒れにしを
昔ながらの
山桜かな

by よみ人知らず
平忠度


昔、天智天皇が都を移した志賀は、壬申の乱で荒れてしまったが、長等(ながら)の山には今も山桜が咲き誇っている。


平家物語・忠度都落」にあるこの歌のエピソード

平清盛が、六波羅を焼き払って、安徳天皇をいただいて西へと落ち延びる時、
清盛の末弟の平忠度は歌の師匠藤原俊成の邸を訪ねました。

懐から歌集を取り出し、せめて一首でも勅撰集に入れてほしいと頼み、別れの挨拶をして従者と共に西へと去って行きました。
翌年、忠度は一ノ谷の戦いで討ち死にしました。

のちに俊成は「千載集」に「詠み人知らず」として忠度の歌を収載しました。


雑上962

たが里の
春のたよりに
鶯の
霞に閉づる
宿を訪(と)ふらむ

by 上東門院紫式部紫式部


紫式部集」51の歌。

夫が亡くなり、年が明け「門(喪中)は開きましたか」と言うので詠んだ。

誰の里の春の便りに鶯が、霞に閉じた喪中の家を訪ねるでしょう

雑上964

春の夜の
夢ばかりなる
手枕(たまくら)に
かひ無くたたむ
名こそ惜しけれ

by 周防内侍
百人一首67番歌)

返歌
雑上965

契りありて
春の夜ふかき
手枕(たまくら)を
いかがかひ無き
夢になすべき

by 大納言忠家
藤原俊成の祖父、定家の曾祖父)


「百人一首メモノート」67番歌


雑上966

いかにして
過ぎにしかたを
過ぐしけむ
暮らしわづらふ
昨日今日かな

by 皇后宮定子

返歌
雑上967

雲の上も
くらしかねける
春の日を
ところからとも
眺めつるかな

by 清少納言

枕草子」からの歌。
清少納言が2、3日実家へ里帰りした時、

中宮様(定子)からのお手紙

どのようにして今まで過ごしていますか。あなたがいない暮らしを寂しく思う昨日今日です。


お返事
雲の上(宮中)でも長くて暮らしかねる春の日を、(田舎では退屈で)何処からということもなくただ眺めているだけです。


参上してから「かねける」とは(いとにくし)と仰せられ、悲しくなりました。本当にその通り(生意気な言い方)だから。

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「暮らしかねける」に、定子はちょっと傷ついたのでしょうか、
定子と清少納言の和歌は、何だか仲良しのラインのやり取りみたいです(^^)