宣下 後堀河天皇
1235年成立
撰者 藤原定家
20巻 約1374首(伝本により違う)
源実朝の母・北条政子が
摂関家から九条道家の子・頼経(2歳)を迎え後見し、
将軍の代行をつとめる(尼将軍)
1221年 承久の乱
後鳥羽院側が幕府に敗れ隠岐へ配流される。
この時、朝廷が敗れ武家政権が確立した。
順徳院は佐渡へ、土御門院は土佐へ配流される。
鎌倉幕府は、京都守護を廃して、
京都鴨川の東、五条と七条の間の地に六波羅探題を設置し朝廷を監視、京都周辺の政務と裁判を統括するものとした。
幕府は、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇(10歳)を立太子礼を経ず即位させた。
1226年、
九条頼経(8歳)が鎌倉幕府4代将軍となる(1244年まで)
執権北条泰時と北条時房による治世(北条義時・政子はすでに逝去)
1230年頃、後堀河天皇の下命を受けて藤原定家が「新勅撰集」の編纂を始める。
天候異変による大飢饉があり編纂が遅延。
後堀河天皇は四条天皇(2歳)に譲位した2年後、1234年に崩御(23歳)
九条道家が故後堀河上皇の許にあった「新勅撰集」の仮奏覧本の完成を定家に依頼。
1235年
「新勅撰集」が完成し奏上。
承久の乱に関係した人々の歌は切り捨てられ、鎌倉幕府方の歌が付け加えられた。
1241年
藤原定家、逝去
1244年
鎌倉4大将軍頼経の子・頼嗣が6歳で5代将軍となる。
1246年
九條道家が幕政から排除され、西園寺家が関東申次となる。
「新勅撰集」巻頭歌
『詞書』上の男共、年内に立春と云へる心を仕うまつりけるついでに
1
新ら玉の(あらたまの)
年もかはらで
立つ春は
霞ばかりぞ
空に知りける
御製(後堀河院御製)
勅撰集で初めて御製を巻頭歌とした。