9番目の勅撰和歌集「新勅撰集」

新勅撰和歌集
勅撰和歌集の9番目
十三代集の1番目


宣下 後堀河天皇

1235年成立

撰者 藤原定家

20巻 約1374首(伝本により違う)

1219年
鎌倉幕府3代将軍源実朝が暗殺され源氏が断絶


源実朝の母・北条政子
摂関家から九条道家の子・頼経(2歳)を迎え後見し、
将軍の代行をつとめる(尼将軍)


1221年 承久の乱
後鳥羽院側が幕府に敗れ隠岐へ配流される。

この時、朝廷が敗れ武家政権が確立した。

順徳院は佐渡へ、土御門院は土佐へ配流される。

鎌倉幕府は、京都守護を廃して、
京都鴨川の東、五条と七条の間の地に六波羅探題を設置し朝廷を監視、京都周辺の政務と裁判を統括するものとした。

幕府は、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇(10歳)を立太子礼を経ず即位させた。


1226年、
九条頼経(8歳)が鎌倉幕府4代将軍となる(1244年まで)
執権北条泰時北条時房による治世(北条義時・政子はすでに逝去)


1230年頃、後堀河天皇の下命を受けて藤原定家が「新勅撰集」の編纂を始める。


天候異変による大飢饉があり編纂が遅延。


1232年、北条泰時ら幕府により「御成敗式目」が完成。


後堀河天皇四条天皇(2歳)に譲位した2年後、1234年に崩御(23歳)


九条道家が故後堀河上皇の許にあった「新勅撰集」の仮奏覧本の完成を定家に依頼。

1235年
「新勅撰集」が完成し奏上。

承久の乱に関係した人々の歌は切り捨てられ、鎌倉幕府方の歌が付け加えられた。


この頃、藤原定家百人一首の原形を編纂。

1241年
藤原定家、逝去

1244年
鎌倉4大将軍頼経の子・頼嗣が6歳で5代将軍となる。

1246年
九條道家が幕政から排除され、西園寺家関東申次となる。


「新勅撰集」巻頭歌

『詞書』上の男共、年内に立春と云へる心を仕うまつりけるついでに

1
新ら玉の(あらたまの)
年もかはらで
立つ春は
霞ばかりぞ
空に知りける

御製(後堀河院御製)

勅撰集で初めて御製を巻頭歌とした。