14番目の勅撰和歌集「玉葉集」

玉葉和歌集
勅撰和歌集の14番目
十三代集の6番目

玉葉集」という命名について
「続後撰集」「続古今集」「新後撰集」とは異なり、八代集の伝統を継承せず、京極派流、革新的歌風を示したいという意図が込められているということです。

宣下 伏見院

撰者 京極為兼

1312年成立

20巻 2800首

歌数は、二十一代集のなかで最多。

歌人は、万葉から一条朝の華やかな時代や当代までに及ぶ。

主な歌人
伏見院 93首
定家 69首
実兼(さねかね)60首
為子 60首
俊成 59首
西行 57首
為家 51首
永福門院 49首
為兼 36首
和泉式部 34首
実氏(さねうじ)31首
親子(ちかこ)30首
慈円 27首
貫之 26首
人麿 24首
基忠 21首


巻頭歌
春上1
(春たつ日よめる)

今日にあけて
昨日に似ぬは
みな人の
心に春の
立ちにけらしも

by 紀貫之

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春上18
(睦月の初めつ方、雨降る日詠ませ給うける)

のどかにも
やがてなりゆく
けしきかな
昨日の日かげ
今日の春雨

by 伏見院


旧暦の睦月は、新暦では1月下旬から3月上旬頃。
春の優しい雨、春雨は昔から使われていたのですね。

『春雨』で調べたら「古今集」に紀貫之の歌がありました。

古今集 巻1春上25

わが背子が
ころも春雨
降るごとに
野辺のみどりぞ
色まさりける

by 紀貫之
紀貫之(872〜945)は、平安時代の貴族。土佐日記作者。古今集の撰者のひとり)


今は地球規模の気候変動で、春雨もほとんど経験できなくなりましたが、春の一雨ごとに植物の緑が濃くなっていくのは変わりません

移り変わる四季を表す日本語は美しい。

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伏見院は沢山の歌を残しています。
伏見院は能書帝で、書道の伏見院流の祖となりました。
多くの宸翰(しんかん、宸筆)が重要文化財に指定されています。

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先代「新後撰集」撰進前
1293年、持明院統伏見天皇により勅撰和歌集の企画がありましたが、
1298年に撰者の京極為兼鎌倉幕府により佐渡へ配流されたり他の撰者が亡くなったりしたため、頓挫しました。

伏見天皇の歌道の師範であった為兼が配流されたのは、歌道師範の立場をこえて政事、人事に介入したとして幕府に対する謀反の疑いをかけられ、六波羅探題に捕らえられたためでした。


1301年 正安の政変(正安3年)
持明院統後伏見天皇から
大覚寺統後二条天皇への譲位が行われ、
持明院統から大覚寺統への政権移譲がなされました。
伏見院、後伏見院は、当分持明院統政権を続けたいと思っていたため屈辱的衝撃となりました。


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1301年
後二条天皇即位と共に、勅撰和歌集の撰集が後宇多院より二条為世に下命されました。

大覚寺統による支配の正当性を誇示する政治的行為とされます。

1303年、「新後撰集」が撰進されました。

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1308年
後二条天皇崩御(23歳)

持明院統花園天皇皇位が移ると、伏見院は再び院政を敷き、頓挫した勅撰集の実現に動き始めました。

撰者をめぐっては、
1302年に赦されて佐渡から帰洛した『京極為兼』と、
二条為氏の子・為世』、
冷泉家の為相』の三家が争いましたが、
1311年に、京極為兼に撰進の院宣が下されました。

玉葉集」は持明院統による初めての勅撰和歌集であり、伏見院自らも為兼と共に撰集にあたりました。


1312年「玉葉集」完成

1315年、京極為兼六波羅探題に再び捕らえられ、1316年に土佐へ配流されました。

鎌倉幕府との対立があったようです。

1317年
伏見院崩御。宝算53歳。

1318年
両統迭立条件(在位10年)により、大覚寺統後醍醐天皇が即位。

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