16番目の勅撰和歌集「続後拾遺集」その3

続後拾遺和歌集

主な歌人
藤原為氏 23首
藤原為家 22首
宇多院 20首
藤原定家 20首
藤原為世 20首
後醍醐天皇 17首
小倉公雄 15首
伏見院 13首
覚助法親王 13首
西園寺実兼 13首
鷹司冬平 13首
藤原俊成 13首
二条為藤 13首


両皇統の歌が撰ばれる配慮がされている。
武家歌人の歌も多く撰ばれている。
足利尊氏の歌は1首)
御子左家二条家直系の歌人が中心。

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春下623

吉野川
なみさへ花の
にほひにて
かけみるみつに
春風ぞふく

by 後醍醐天皇

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夏239

六月祓(みなづきばらへ)を詠ませ給うける

みそぎ河
流れてはやく
過ぐる日の
けふみなづきは
夜も更けにけり

by 新院御製(花園院)


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花園天皇は、1318年に後醍醐天皇に譲位。
皇太子量仁(かずひと)親王(のち光厳天皇)のために学問所を置き、自ら親王の教育にあたり、量仁親王を訓戒するために「誡太子書」を記す。

1331年、量仁親王が即位し光厳(こうごん)天皇となる。

1331年 鎌倉幕府滅亡

1335年 花園院は出家し、遍行と称する。

1349年 17番目の勅撰和歌集「風雅集」の編纂を下命する。


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花園院の記した「誡太子書」(かいたいしのしょ、太子をいましむるのしょ)

冒頭に、君主のために国家人民があるのではなく、国家人民に尽くすのが君主の役目である、と記されています。

そして「徳なくて上に立つことを恥じよ」と。

実子ではないのに皇太子教育を托された花園院。
宸筆が伏見宮に伝えられ宮内庁書陵部に保存され、展覧会で公開されることがあります。


花園院に学んだ光厳天皇は、歴代126代には含まれず、北朝初代天皇とされています。


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「誡太子書」は、今上・徳仁天皇が歴代天皇の事蹟を学ばれる中で大事に思ってこられた書だそうです。

50歳のお誕生日会見でも
花園天皇が(略)まず徳を積むことの重要性を説き(略)花園天皇の言われる「学問」とは、単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき道義や礼儀をも含めての意味で使われた(略)」と、お話しなさってました。


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